ゲイの話

ゲイである自分を受け入れてくれない家族を受け入れよう

昔々、まだ自分がゲイデビューしたての頃にできたゲイの友人がずっと家族関係で悩んでいたことをふと思い出した。

友人がずっと悩んでいたのは「ゲイだということを家族が受け入れてくれてなくて辛い」ということ。正確には、カミングアウトしていないけれど、ゲイだと言う前から家族が到底同性愛を受け入れるような雰囲気じゃなかったことを悩んでいた。

この悩みって、自分がゲイだと自認したばかりの人にとっては誰しもが通りうる悩みだよね、ってことで今の自分だったらどう考えるか?を考えてみたので今日はそんな話をします。

受け入れてくれない相手を受け入れよう

ゲイだということを受け入れてくれない家族に対してできるのは、そんな家族をも受け入れるってことだと思う。

それは「自分の息子がゲイだと知って絶望するような親」を受け入れるということ。相手を説得しようだとか、考えを変えようだとかは思わずに、単純に、「自分自身の親は自分の息子が同性愛者であることを受け入れられない人間なんだ」という事実を自分が受け入れること。

往々にして人間、それも若いうちは親を過信し過ぎているとつくづく思う。

わからない人にはどんなに言ったってわからない、生きているとそんな経験は全く珍しくない。それどころか、言って相手が変わる方が稀だったりする。それが偶然自分の親にも当てはまったってこと。

親だって人間、全知全能じゃない。あなたのことを愛してやまなくとも、むしろ愛しているからこそ、どうしても受け入れられないことだってある。だから、そんな受け入れてくれない家族をそのまま受け入れてあげよう。

大事なのは相手に期待しないこと

言ってもわかってくれない人がいる。それはある程度の年齢になるとほとんどの人が経験したことがあると思う。だけど、殊家族のことになると、なぜそんなに悩みが深くなるのか?って話だけど、

それは相手に対する期待値が大きすぎるからだと思う。

自分の血縁、自分の親、自分の家族である、すなわち無条件で愛してくれているはずの人間に、自分が受け入れられないのはもちろん辛い。

だけど考えてみてほしい。あなただって、親について、どうしてもここだけは受け入れられない、尊敬できない、そんな部分があるはず。だけどそれって何十年説得しても変わらないものだったりする。でもその一方で親を尊いものだと思っているし、家族という絆をちゃんと感じているはず。

家族側も同じ。あなたのことを愛している。あなたのこと全部を受け入れられないわけじゃなくて、あなたのセクシャリティの部分だけが受け入れられないわけだ。

そんな家族に対してできるアクションは二つしかない。

自分のセクシャリティを受け入れられない家族、としてこのまま関係を続けるのか、

自分のセクシャリティを受け入れられない家族、は自分にとってどうしても許せない相手だとして縁を切るのか。
 
だけれど、たぶんこれの答えは出ていて、もし後者を選ぶ人が大半だったらこんなにも自分がゲイであることと家族との関係で悩む人はいないはず。

自分のセクシャリティを受け入れられない家族、としてこのまま関係を続けるなら、そんな家族を受け入れるしかない。人はそう簡単に変わらない。もしかすると、家族の一員であるあなたがゲイだったことで、同性愛に対する考えが変わるかもしれない。だけどその時はラッキーくらいに思って、基本はそのまま受け入れるようにしよう。

変わるか変わらないかを決めるのはその人自身。あなたはそこにエネルギーを使うのではなくて、もっと有意義なことに自分の時間を使おう。

tiadの体験談

かくいう自分自身も、この悩みと無縁だったわけじゃない。むしろtiadの親は、いわゆるオネエだとか、同性愛者に対してかなり手厳しいタイプの人間笑。「孫の顔を見るまで死ねない」と言葉にすることもあるし、テレビに映るLGBTを見て嫌悪感を顕にすることだってある。

tiadは親へのカミングアウトはまだしていないけれど、結婚をチラつかせられたりしたときはハッキリと「しない」と答えてる。幸い結婚に関しては、「まだ早いものね〜」みたいな態度なので今の所しつこく聞かれることはないけど、そろそろ年齢も年齢なので本格的に話題にし出すのも時間の問題だなーという感じ。

その時が来てもたぶん、ハッキリと「しない」、というと思う。たぶん、いや絶対に失望すると思うけど、仕方ない。そもそもそれすら(向こうが自分に)期待しすぎなんだと思う。

その時は勝手に期待して、勝手に失望してる、と思う。

期待に応えられなかったからと言って自分の価値が下がるなんてことはないし、自分のセクシャリティで生きて、添い遂げたいと思えるくらい愛せる相手とも家族のような縁を紡げばいいじゃん、って感じ。

まとめ

これは一種のあきらめにも近いものだと思う。だけど単なるあきらめじゃない。

そもそも人間は他人に、とくに家族に期待し過ぎる。「家族」という尊い存在であっても、同性愛を受け入れられるほど人間として出来ているか、自分の理想全てを兼ね備えた人間であるか、ということはまったく別の話。

あきらめ、というとはがゆく思うかもしれないけど、別の言い方をすれば、そんな家族でも受け入れることができるほどに自分が成長したと言うこともできる。個人的にはこっちのほうがしっくりくるな〜なんて。

あの頃のtiadは、友人が悩んでいるのを見て自分も同じように悩むばかりだったけど、今ならこんな風に考えられるようになった、とこのブログを綴りながら自分自身の成長を感じました。なーんてね!ちなみにtiadは家族のこと大好きです。

tiadでした〜。